自制と利己主義と私
今回のゼミも引き続き文学。
先週出された「人間(クローン人間)を作り出すことの是非」
「自己肯定感はどのようにえられるか」をゼミ生と先生で話し合いました。
それについて、①自分の結論 ②先生の結論をまとめたいと思っています〜。
まず、「人間(クローン人間)を作り出すことの是非」について、自分のアイデアを思いつく限り出しました!
こんな感じ↓
八割くらいが反対意見かな。実際、賛成意見は無理やり出しました。
次に、出したアイデアを客観的に賛成か反対か、主観的に賛成か反対かを分け、表にしました。
四人グループでやったのに客観的賛成が一つもないんです。
石川先生曰く、この四つを全て埋めることで、是非の議論ができたり、新しいアイデアが生まれるそう。
卒論とかにおいて是非を考えるって重要なことだと思うからこれは使える。
というか、普段の話し合いでもなんでも使えると思う!
一つの捉え方から四つの捉え方になれば、話の幅が相当広がるんじゃないかなあ〜
これは、心がけたい、覚えておきたいポイントです!
また、先生の述べていた「主観的に賛成」の意見。
・自分のクローンがいれば、楽できる
・クローンを自分のスペアパーツ扱いできる
いやまあ確かにそうなんですけども、、なんだか口に出しづらいですよねこれ。
確かにそうだけども、「自制」が働くでしょ?それってなんで?
って問いかける先生がなんだか怖く見えました。すみません。
でも、これって前学習した哲学の授業に繋がっているんじゃないだろうか...
「自制」って「利己主義」なのかもしれない。
以前、利己主義についてブログを書いた時、とっても簡単に書くと、「利己主義は誰しもあるけれど、親しい間柄や愛のある関係には働かない、働かないでほしい(人間の本当に愛に利己主義は関与しないと思う」
みたいなことを書きました。
https://mtokmsk1230119.hatenablog.com/entry/2019/04/25/191240
これって「自制」にも繋がっている。
親しい人、大切な人、物には利益だけを目的とした行動はしないように「自制」しますよね?
先生の述べた意見を私たちゼミ生が誰も出さなかったのは、「自制」が働き、「利己主義」を抑えたからなんじゃないかな。
その根底には、
・冷徹だと思われたくない
・そんな意見を出すと変な人だと思われる
とか、
・スペアパーツ扱いされるクローンがかわいそう
・なんだか自分が悪者みたいに思われそう
っていう様々な気持ちがあったんじゃないかなあ。
先生はその違和感を引き出すためにそういった、一見冷たいように感じられる意見を述べたのかな思いました。
二つ目
「自己肯定感はどのように得られるか」
みんなの意見を聞いて、本当に人それぞれ自己肯定感の高め方ってあるんだなあと正直びっくりした。
こんな感じで全員分の意見を聞くことが出来たのだけれど ↓
・褒められたい
・自分に課した課題をクリアする
・存在を認められる
・身近な人からの評価
などなど!
正解不正感なんてないけど、褒められる、認められるで、私は自己肯定感は上がらないです。
そもそも他人に左右されてしまう自己肯定感を、他人に高めてもらうことは自分にとって不可能なんですよね...
「褒める」「認める」って「するフリ」が出来ますからね。
そりゃあ〜嬉しいですけども!
グラグラした不安定な自己肯定感でしかないと思うのです。
私はとにかく「好きなことに対する知識を増やす」ですね。
不安が減るというか...
自分の好きなようにすることが、自分を認めてあげられる一番の方法だと思うんです〜。
長々と自分の自己肯定感の高め方について書きましたが、またまた先生が一言。
「自己肯定感を高めてくれるのは一番近い存在の彼氏、彼女、配偶者。」
人間には「本音と建前」があるから、極論、認めてほしいから付き合うんです。
ズバあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
めっちゃ言うやん。話の流れ的にふんわり心の中にあった物を言ってしまうやん。
本当に勝手な解釈なのだけれど、これまた利己主義や自制について気づかせるためにわざと言ったのかもしれないなあなんて思いました。
何を思いつくにも「利己主義」と人間の頭って切っても切れない関係なんだな。
これは利己主義じゃなくて愛なんだって言える人間でありたいー!
文学の登場人物、内容から、またまた哲学について考えさせられる回になりました。